人生とは/ノブレス・オブリージュの真意

昔は、田舎のスーパー店員にでもなってある程度の生活で、ある程度の幸せだけが欲しかった。実際それ以外は不要であったと言っても過言ではない。

 

その後、高校に入った頃だろうか、自分の周りにはオタクと変人しかいなくなってそれ以外の人間の顔の区別がつかなくなったと思うし、その顔の区別がつかない人間から私を見たらもしかしたらそれこそ空気でしか無い、という感じだったように思う。

 

その頃には、就職という言葉を重く感じてしまったような気がする。

まぁ、結局の所は自分の居場所を見つけてしまったところで、『オタクのいる職場』というものに憧れを持ったりした。まぁ、今もそんなにオタクがいない職場にいるが。

今の職場に対しての不満は無い。正直、それこそ高校の頃に感じた顔の区別がつかない人間たちのせいな気がする。結局面白みの無い平凡な人生を生きていく人間たちばかりで結局は辟易してしまうのだ。上を見ても右を見ても左を見ても平凡平凡。

自分自身に対しての価値を上げるために、自分が何かしらやっていないが、特別な人生を過ごしているわけではないが、自分に対して付加価値を付ける必要もなくなってきたような気がする。

結局人の優先順位は人なのだ。

言葉を変えれば『ノブレス・オブリージュの真意』と言ったところか。

皆さんはノブレス・オブリージュに対してどう思うのだろうか。

ノブレス・オブリージュ、私が幼い頃は平面的に『持つものは持たざるものに』

少しおとなになってきたら『貴族の義務、民の分前』

といったところだろうか。まぁ、諸説はあるが。

だが、このノブレス・オブリージュ、実際持つものになるためには、自分を高め、人を蹴落とすということが必要になってくるわけだ。要は、『人が人を救うためには結局誰かを蹴落とさなければならない』ということだ。

そのまた逆を考えれば、『誰かを蹴落とさなければならない』という余計な感情を持ち合わせ生まれ持ってしまった人間は、結局人のためにならずに死んでいくという話になっていく。結局三角ピラミッドの底辺というのはこういう『優しい人間』なのだ。

学校の試験でも、仕事の業績争いも、結局人は何かと戦わなければならないのだ。

だからこそ、毎日会社に行って、あるいは学校へ行き、辟易とした人生を送りながら、何かのために物を売り、何かのために人の下に付き、仕事という何かを行っていくわけだ。

これに対して、またはこの記事に対して、いろいろ考えてこうやって明文化できるようになったあたりは、幼い頃から私は成長したんだなと少し感じた、そういう感じ、わかる?

 

以上