モチベーションとの向かい方/神が振るサイコロについて

社内試験があるがやる気がない。

まぁ、よくある話だ。

エンドレスエイトで宿題をしたくないキョンみたいなあれである。結局、自分に対してあまり必要のないものに対して(要は就職試験や人生が変わる的なあれな試験以外のもの)は、全般的にやる気にならない。

特に、私のように試しに受けて受かった会社で、上京をして、行きたくない東京に行ってる感じだと、特に思う。前の記事でも書いたが、結局スーパーの店員だの、しがない会社のSEとかになりたかったのに、こういうのは向いていない。と思っている会社に入ってしまった残念そうで、意外と残念じゃない奴らだ。

結局は誰にも選ばれない人間がいて、要はサイコロで1しか出ない人間がいるのに対して、自分はサイコロをランダムに振れても、振る気にならない人間というのが、いる。

私はこの前までずっと、さいの目は1しか無いと思いながら1しか出していなかった人間だったが、ランダムでサイコロを振ることができる、要は自分で自分に対してのさいの目を振れるようになったらゲーム性がない(という気になって)と思って面白くなくなった挙げ句に、結局サイコロを振り続けている限りは神には勝てないと思ってしまう感じが、結局自分に対してのモチベーションを下げてしまっているように感じた。

私は一般人じゃないんだと思った。結局、神の振るサイコロには歯向かわないと面白くないというか、不幸にならないと面白くないというか。

まぁ、上に書いたこと自体については、自分自身が抱えている問題なのか、そうではないのかという事自体もよくわからないし。

 

よくある話だ。だって私は夏休みの宿題を9月1日から3日にかけて行う派だからだ。自分に対して嘘をつきたくはない。

結局あの夏休みの宿題という忌々しいものは、僕たちの人生の縮図だ。課題を終わらせる人間は、『他人に対して教員という教室のサイコロを振る人間に対して媚を売っている感覚』に陥るんだ。

結局、そういうところだけは、一生矯正しても変わらないんだろうな。私がウェイ系と一生相容れないが如く、変わるところは大人になったと思いつつ、変わらないところは自分の『アイデンティティ』だと思って自分に対して納得をさせようとする。

そうやって、僕らは大人になるという選択肢のない選択を迫られているのだ、神に。